腕時計喫茶

「微妙」な時計を愛してる

腕時計の相次ぐ値上げを「寛容のパラドックス」に当てはめて考える

 「寛容のパラドックス」をご存じでしょうか?? 1945年に発行された哲学者カール・ポパーの著書『開かれた社会とその敵』において、初めて定義されたパラドックスです。極々簡潔にその内容を記しますと… 「もし社会が無制限に寛容であるならば、その社会は最終的には不寛容な人々によって寛容性が奪われるか、寛容性は破壊される」とのこと。解るような解らんような… すごく解るような (;´Д`)

 

寛容の精神と共に滅びるか、不寛容に転じるか

 まずはWikipediaからの引用文をご覧ください。

 「寛容のパラドックス」については、あまり知られていない。無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く。もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。

 この定式において、私は例えば、不寛容な思想から来る発言を常に抑制すべきだ、などと言うことをほのめかしているわけではない。我々が理性的な議論でそれらに対抗できている限り、そして世論によってそれらをチェックすることが出来ている限りは、抑制することは確かに賢明ではないだろう。

 しかし、もし必要ならば、たとえ力によってでも、不寛容な人々を抑制する権利を我々は要求すべきだ。と言うのも、彼らは我々と同じ立場で理性的な議論を交わすつもりがなく、全ての議論を非難することから始めるということが容易に解るだろうからだ。彼らは理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない。

 ゆえに我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を。

 洗練された社会は「寛容」を旨としなければいけない… これは確かにそうなのです。ただ、それは手段や方法論としてあるのではなく、結果として「寛容的精神による建設的な妥協」で社会を成り立たせているのが所謂「まともな国々」なのです。そういった国々の指導者たちは刻々と変化する状況の中で、何かしらの落としどころを探し続ける「綱渡り政治」を続けています。優れた政治家とは、落としどころを見つける術に長けた人物のことを指すのかもしれません。

 ポパーの「寛容のパラドックス」は、日常生活のような身近な状況に当てはめても「正に然り」と納得できる定義だと思います。例えば、貴方の目の前に人の話を聞かない、傍若無人の人物がいるとします。その手の人物がまき散らす迷惑な所業に「無制限な寛容」を示したとして、その人物が謝意を表し、自らを戒めるとは到底思えません。なぜならば彼らは乏しい理性が故に傍若無人なのであり、残念ながら「寛容」の意味を正しく理解することができないからです。

 目線の異なる相手に対して、こういった「無駄な寛容」は逆効果になります。増長を繰り返す彼らに対して取り得る選択肢は2つ。「寛容の名の下に共に滅びる」「不寛容に転じるか」です。

 

消費者が寛容でいられる「閾値」

 そもそも現代社会においては、日々「寛容の求め合い」が繰り返されています。SNSを俯瞰してみれば「寛容でいられる閾値の探り合い」が行なわれていますし、不寛容に転じる瞬間に立ち会うこともあります。腕時計の話題に絞っても似たような状況だと思いますが、昨今で顕著な例と言えば、やはり「原材料の高騰などを理由とした値上げを許して」ではないでしょうか??

 それに対して、アチコチで愛好家さんたちの怨嗟の声は聞こえるものの、ビビットに反応して「ならば値下げだ!!」と発表したトップブランドを私は知りません。原材料高騰だって嘘ではないでしょうし、開発のための研究、人件費などのコストも増える一方なのでしょう。意地悪な言い方をすれば「寛容的な消費者コミュニティーを擁するブランド」であること自体が良い宣伝になりますから「消費者が寛容でいてくれる間」は、特に修正を試みる必要もないわけです。要するに「ウチには上客が揃っている」と示すことができますからね。

 ただ私には、ポパーが「寛容のパラドックス」で言及した「最悪の事態の足音」が聞こえる気がします。少なくとも日本で言うところの「中流」にとっては、看過できない値上げで手の届かなくなりつつある「高級ブランドの時計」。その重すぎる現実に「寛容でいられなくなるスレッショルド」が近付いていると感じるのです。

 

 

腕時計二次市場の「値崩れ」に慌てる気持ちは解る

 愛好家の側面から見れば、これまでの「寛容」は愛する腕時計の世界観を守るための寛容であったと言えると思います。当然ながら寛容の発露は「理解」です。腕時計の価値や製造に関する深い理解が、彼ら(私)の寛容を支えていたのは確かでしょう。

 昨今、二次市場の低迷(中古品の価格が下がることを低迷と呼んで良いのならですが… )で、腕時計の資産性に目を付け飛びついた層の離脱が話題になっています。そういう人たちは毎日中古市場の値動きに目を光らせ「ここぞ!!」という売り時を狙っていたのでしょう。確かに一時の「最高値」を知ってしまった人にすれば、浸水し始めた船から逃げ出したくなる気持ちも解らなくはないです。実際、それほどの値崩れを見せ始めていますからね (;´∀`)

 そうして二次市場に売り物が溢れ、それがまた中古価格を下げる要因となっています。それを目の当たりにした人が、さらに焦って売りに走るという… (;´Д`)

 腕時計を資産として考えたことがない私には全く無縁な話ですが、本気で死活問題と捉えている人もいらっしゃるのでしょう。そこはお察し申し上げます。少しでも高く売れると良いですねぇ。

 

相次ぐ値上げに置き去りにされた男のブルース

 これら現象に私が危惧しているのは、所謂「祭りの後現象」が起きつつあるのではないかという点です。普通のオイパペが中古で200万円を越えた時点で私は「とんでもない狂乱」だと思いました。祭りの熱にあてられて、物の本質的な価値が解らなくなったからこその「お祭り騒ぎ」。まぁ、それでも買う人がいたからだとは思いますが…

 問題はその後ではないでしょうか?? 祭りの狂乱が凪いだ今、腕時計界隈の熱量は明らかに縮小したように見えます。腕時計を「儲かる資産」として考えてきた連中こそが、昨今のブームを牽引していたのだと考えると誠に皮肉なことですが、この「凪」の回復を伏して待つには辛すぎる現実もあるのです。それが高級腕時計の定価の「馬鹿みたいな値上げ」です。

 「憧れ」は、その対象にギリギリ指がかかっているからこそ、憧れていられるのです。私だって幾つかの憧れに中指の第一関節くらいは引っ掛かっている状態でした。「超人」ラインホルト・メスナーばりにギリギリぶら下がっていたのです。しかし、このところの無慈悲な高騰でその繋がりも断たれた今、一体何を目標にすれば良いのかと考えることもあります。

 腕時計ブランド・メーカーに対して「無制限な寛容」を発揮し続けるなら、このように消費者置き去りの値上げにも無言で頷くしかありません。その結果、愛して止まない「腕時計趣味」を嫌いになったとしても、それすらも寛容を貫く… 行きすぎた寛容が寛容を破壊する末路がこれです。そもそも値上げを断行したブランド側が、一度でも消費者に対して「値上げしても良いですか??」なんて、頭を垂れて聞いてきたことがあったでしょうか?? 

 これはブランドが消費者側に対して、常に「不寛容」の立場で相対しているという証左だと思います。「値上げをすれば消費者が困るかも知れない」… 微塵も考えないわけではないでしょう。しかし、それで自ブランドに対して不寛容な消費者が離脱したとしても、残った「極度に寛容な消費者」相手の商売をすれば良いだけ… 大幅な値上げを行なってきたブランドの心中はそんな感じかもしれません。

 

美術品と同じに考えるのは危険

 しかし、そんな殿様商売も遠からず難しくなるでしょう。現在、腕時計を買い求めている層もいずれは歳を取り、腕時計以外の対象に美点を見出すかもしれないからです。

 そもそも超富裕層からすれば、腕時計の価値は中途半端です。美術より数段落ちる工芸的な価値しかありませんし、継続的な価値と言ったところでその歴史は知れています。今のところ基本的に時計には「時計としての価値しかない」のです。例えば単なるステンレスの3針ワンオフ時計が評価されて、有名オークションでその他の絢爛豪華な時計の価値を上回ったなら、そのときが「腕時計が美術として本質的に認められた」記念日になると思います。

 つまり腕時計の美術的価値は「これから先の未来」に確定されるもので、本物の富裕層が自分の名前を残すために収集して、自分の名前を冠した美術館に納めるに相応しい不変の価値を持った美術品とは話が違います。確かに、先ごろ拝見したパテック・フィリップの展覧会は驚嘆すべき作品の数々に圧倒されましたが、例えばレンブラントの「夜警」を正面から見たときの感動に匹敵するとは思えません。

 決して時計に美術的な価値がないとか、そういう話をしたいのではありません。時計の価値はその機構を含めて見極める必要があり、どれほど強烈な時計であっても、時計は時計としての価値基準の中でのみ、その総合芸術的な価値を論じられるべきだというのが、私の一貫した意見です。

 

 

最後に… 腕時計文化の寿命は「長い」か「短い」か

 時計の価値はある種の「ブーム」に支えられる部分が多く、その波が去れば現在の二次市場で起きているようなことが容易に起きうるのです。「欲しい人がいるから価値がある」みたいな稚拙な状態が続くようでは、腕時計の価値が一流の美術品に迫ることは金輪際ないでしょう。残念ながら現時点では、資産として今後どう転ぶか解らないのが「腕時計」なのです。

 文化には「賞味期限」があると言われます。寿命と言っても良いかも知れません。果たして腕時計の各有名ブランドは、自分たちの寿命を正確に把握できているでしょうか?? まだまだ余裕と構えていたら、実は落語の名作「死神」みたいなことが起きているかもしれません。

 ブランド… と言いますか、業界全体に対して思うことですが「最良」と同時に「最悪」を予見する戦略眼を持って今後の展開を慎重に選び取って欲しいと思います。そうすれば、たまには業界側が戦略的な譲歩としての「寛容」を示す必要があると気が付くかも知れません。

 「寛容」を強いられてきた消費者側が隠された権利に気付き「我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を」… などと言い始めてからでは全てが遅いのです。慌てて短くなった寿命のろうそくの火を長いろうそくに移し替えようとしたって、それは至難の業。ほら、落語「死神」で死神さんも言ってるでしょ?? 「早くしねぇと、炎が消えて死ぬよぉ~」ってね (;´Д`)